1925年~1945年日本における子どもの遊び

以下は、子供のおもちゃと遊びについての概観である。児童雑誌や紙芝居については、「メディアと娯楽」を参照されたい。

戦前および戦時中の子供の遊び体験は、学校環境や地域の共同体空間によって形成された。これらは家の中で家族と行われるよりは、屋外で同世代の仲間たちと行われることのほうが多かった。収集されたインタビューでは、一人遊びはめったに語られなかった。

大人は、商品であるおもちゃや学校での活動を通して、子供の遊びの様式に影響を与えることはできたが、インタビューにおいて、上意下達の、つまり大人に指示された遊びが回想されることはほぼなかった。戦時中、東京のデパート店は軍事的モチーフをあしらったおもちゃを販売品として飾ったが、店頭販売されるようなおもちゃは、地方の子供にとっては入手困難であるか、高価過ぎるものであったようだ。インタビュー参加者の多くは、一般の小売店や縁日で売られていたメンコのような小さく安いおもちゃ以外、販売されているおもちゃのことを全く覚えていなかった。私たちのインタビューでは、特に都市部に住む余裕のある層の子供たちとそれ以外の子供たちの違いが明確に出た。余裕のある家庭の子供たちは販売されているおもちゃや遊びについて語ることが多く、それ以外の家庭の子供たちは店頭で販売されているものに関して語ることはほとんどなかった。たとえ大多数のインタビュー参加者が、安いおもちゃ以外のおもちゃも手に入れることができていたとしても、それに関する記憶はないようだった。例えばカルタなど、一般販売された商品を使う遊びもあったが、これは新年の遊びとしてのみ記憶されていた。

しかしメンコでさえ、子供たちに視覚を通して軍事的イメージに触れさせることはできる。あるインタビュー参加者の一人は、少年向け雑誌であった『少年倶楽部』に連載されていた軍事的・帝国的響きのある漫画の主人公であるのらくろと「冒険ダン吉」の絵が印刷されたメンコを覚えていた。軍国主義は、家族全員で楽しむお正月のおもちゃ、例えば凧や羽子板、スゴロクゲームの挿絵の中にも潜んでいた。

インタビューによると、男子が最も多く購入したおもちゃはメンコで、女子はガラスのおはじきだった。(メンコは方言で「パチ」(福岡)、「べったん」(大阪)、「ビダ」(青森)とも呼ばれた。)(メンコの一般的な遊び方は、メンコを地面に叩きつけその勢いで相手のカードをひっくり返らせて取ることだったという。)他にも駒やベーゴマのことを語った参加者もいた。おもちゃの中には購入するものと自分で作るものがあった。例えば「おじゃんみ」など様々な名称で知られる「お手玉」(豆などの入った布袋)、ラムネ瓶から取れるビー玉、木製の粗末なスキーやスケート(「べんじゃ」や下駄にスケートを足した「下駄スケート」などと呼ばれるものがあった。)などがその例である。ごくたまに自転車や人形、または(多くは自家製の)野球グローブやバットなどがインタビューの話題に上った。ソリは大抵、自家製だった。

子供は学校で遊びを習って遊んでいたが、それに教師がどれほど介入していたかは定かではない。地方疎開していた東京の名門小学校の例を取ると、教師は休み時間に時折生徒たちと接していたが、体育の授業時間やカンケリなどの遊びをする場合は、必ず生徒たちに付き添っていた。この学校の生徒の日記には追いかけっこや押しくらまんじゅうなどの遊びが記されている。押しくらまんじゅうは、相撲に少し似ている遊びで、インタビュー参加者によると冬に暖まるために遊んだそうだ。

地方に住む、疎開しなかった子供たちが休み時間に楽しんだ遊びの内訳は、女子が縄跳び、あやとり、ケンケンパ、ゴム跳び、鬼ごっこ、ドッジボール(自家製のボールにわらを詰めたボールを使った場合もあった)を楽しんだ。男子は野球を基本としたさまざまな遊び、戦争をテーマにした追いかけっこ、それから木の枝を使ったチャンバラごっこなどをして遊んだ。軍部地域に住んでいたあるインタビュー参加者は、男子が兵隊遊びをすると、国防婦人会の地域会員がご褒美としてせんべいをくれたことを覚えていると語った。

その他、大人が間接的に子供の遊びを戦争方面に仕向ける方法としては、裁縫や工作の授業があった。これは子供たちが放課後に行う趣味の活動に影響した。インタビューによると、特に男子、それから少なくとも一人の女子は、紙と竹ひごを使って模型軍用機を作るのを楽しんだという。子供たちは地域の在郷軍人が審判をするコンテストに参加し、ゴムプロペラで動く模型軍用機を飛ばすことができた。しかし、工作の全てが軍国主義的なわけでもなかった。一般的に家庭で作られたおもちゃには竹馬があった。

インタビュー参加者の中で、教師や他の大人の保護の下で行われた勝負ゲームを子どもとしてどう「調停」したかを思い出す者はあまり多くない。ある男性インタビュー参加者によると、先生が同級生たちのゲームを止めさせようとしたので、子供たちは先生の目の届かないところでケンカごっこを行う取り決めをしたことがあったという。別のインタビュー参加者は、相撲、泥団子合戦、ケンカごっこなどが本物の喧嘩に発展することがあったと語った。

インタビュー参加者のほとんどは、放課後は大人に見守られることなく、夕食の時間まで近所の子供達と遊んだことを覚えていた。男女は(別学になる)3年生から別々に遊ぶのが一般的だったが、女子の中には「お転婆」として個人的にその区分を超える者もいた。子供は、お寺や神社の境内、農家の門付近に遊び場を見つけた。都市部では家々の間の細い路地に遊び場を見つけることが多かった。女子は男子よりも家の近くで遊ぶことが多く、冬には縁側まで引っ込んで遊ぶことが多かった。自分専用の子供部屋のある子供がほとんどいなかったせいか、屋内で遊ぶことは滅多になかった。

泥で作った泥団子や銀杏の実、梅干しの種など、自分の身の回りにある自然なものを利用して遊ぶ子供もいた。インタビューによると、女子の方が「通りゃんせ通りゃんせ」のような、民間で伝承されたリズミカルな拍子に合わせて歌ったり動いたりする、集団での遊びをすることが多い。農村に住む子供たちのほとんど、特に男子は、ソリ遊び、雪合戦、木登り、川での泳ぎなど、屋外での運動を楽しんだ。戦時中の食糧難と配給制限が厳しくなるにつれ、森林や草原で食料を入手することが遊びを兼ねた生き延びるための補助手段として行われ始めた。しかし一般の農家、戦争のずっと前から生活に余裕があるとは言いがたかっただけに、これは何らかの形ですでに行われていたことが推測される。よく出てきた食べ物集め「遊び」には、釣り、木の実やコケモモ集め、芋掘り、タケノコ採り、海辺でのカニ採りなどが挙げられた。

ハリデー・ピエル&ピーター・ケイブ

文献の記載方法 

ハリデー・ピエル&ピーター・ケイブ 「1925年~1945年日本における子どもの遊び」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]