1900年~1945年の初等教育における学習

授業時間の側面から見ると、尋常小学校における最も重要な教科は「国語」と「算術」(現在の算数)だった。国語は授業時間の約3分の1から半分を占め、低学年の算術の授業は週6時間で、高学年は4時間だった。算術の授業は、重要な計算の手段として、算盤の使い方の学習も含まれていた。1945年から何十年も過ぎた後でも算盤を使う店員や会社員の姿はよく見かけられた。

国語は「読み方」、「書き方」、「綴り方」(現在の「作文」)に分けられた。国語の教科書は、子供の知識を広げると同時に倫理観と愛国心を育成するための様々な物語や実話を含んでおり、全教科の中で最も重要な位置を占めていたと言っても過言ではないだろう。「書き方」とは、筆で書く習字のことを指す。紙にかかる費用を抑えるため、子供たちは新聞紙に何度も字を書いて練習した。先進的な小学校教師が、特に画期的な教育法を編み出す教科は作文だった。そのような教師は、明治時代の画一的な課題ではなく、子供自身が興味を持った課題について「子供らしい」スタイルで書くことを勧めた。1930年代には、子供自身の生活上の困難に対して意識を高めるために「生活綴り方」という教育法を編み出すまでに至った。

尋常小学校の高学年になると、子供たちは歴史、地理、理科を学んだ。(女子はこれに加えて裁縫も学んだ。)歴史の教科書は、他の伝説と同じく、事実として紹介されていた天照大神の伝説で始まる。特に強調されていたのは皇室に忠誠を尽くす人物像だった。よく取り上げられたのは、将軍足利尊氏と後醍醐天皇の関係を中心とした南北朝時代のことである。後醍醐天皇に忠義心厚く仕えた楠正成は、歴史教科書だけでなく国語の教科書や唱歌の教科書でも賞賛された。一方、理科では、子供たちは自分の周辺にある自然界のことを勉強し、簡単な科学的実験を行った。

美術、音楽、体育などの教科も無視されてはいなかった。1920年代頃までには、大正時代の芸術教育運動の影響で、屋内外での静物画や風景スケッチが広く行われるようになっていた。子供の描いた優秀な絵は、教室や廊下に張り出されたと証言したインタビュー参加者もいた。音楽の授業とは、大抵、小さなオルガンを弾く先生の指揮のもと、歌を歌うというものであった。(ピアノは高価だったので小さいオルガンが使われた。)歌は、文部省(現在の文部科学省)発行の教科書から直接取られた唱歌であったり、文部省に認可された歌であったりした。テーマは幅広く、自然の美しさを歌うものから、日露戦争の乃木将軍や広瀬中佐などの軍事的英雄を称えるものまであった。

「修身」は現在でいう「道徳」であり、これがカリキュラムの核をなした。修身の教科書の内容の中心は国粋的愛国心であり、1945年以降、修身はそれを子供に植えつけた元凶として広く批判された。しかし修身の教科書は、他にも勤勉さや誠実さ、親孝行や協調性など、国が育成したいと願っていた様々な倫理観も含んでいた。この研究プロジェクトのインタビュー参加者たちがよく口にしたのは、のちに農学の先駆者、経済学者、そして役人になった、勤勉な農民出身の少年、二宮金次郎について習ったことだった。他にも「教育勅語」を暗記したことを思い出した参加者もいた。

1920年代後半からは、後に「郷土教育」として知られるようになるアプローチを始める学校も出てきた。これは子供が自分の地域について学ぶことを中心に据えたカリキュラムだった。地域ごとに作成された、このような地元について書かれた教科書は、地理や理科で副読本として使われることがあったようである。そのほか、子供たちが自分たちの村について調査する進んだ例もあったようだ。こういった取り組みは、特に地方で実施される傾向が強かった。政府は、地方の生産性を上げ、国粋精神を養うためにこのような取り組みを推奨したようである。また、農業に関して体験的な学習ができるように、先生と子供たちが野菜を育てたり動物を飼ったりする学校もあった。「郷土教育」運動がいかに進歩主義と国家主義(ナショナリズム)を取り混ぜたかには関しては、今でも議論が絶えない。滋賀県においては、近江八幡の島小学校、それから瀬田小学校の校長を歴任した矢島正信氏が、「郷土教育」の重要人物だった。インタビュー参加者には瀬田小学校に通った者が数人おり、理科の授業で、学習園の植物の観察記録をつけていたことを回想している。

ピーター・ケイブ

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ 「1900年~1945年の初等教育における学習」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]