概観: 1900年~1945年の日本における教育

1868年の明治維新後、明治新政府は1872年の学制発令をもって日本最初の大衆国家教育制度制定に乗り出した。しかし、制定されたことを実際に遂行するのは計画を立てるよりも難しかった。全国に教育制度がしっかりと確立されるまでには年月がかかり、何回もの大きな改正が施行された。

1945年まで続くことになる教育制度の構造と組織の大枠が確立されたのは、1900年前後だった。選抜式中等教育にとって大きな節目となったのは1899年、改定中学校令、新高等女学校令、そして新実業学校令が発令された年だった。その間、小学校の入学率は着実に上昇し、文部省が小学校の最初の4年間を義務化し通学義務をより厳格に強制することでさらに上昇した。1907年までには通学率は90%近くにまで達し、その年の改定小学校令では、尋常小学校での義務教育が6年に延長された。

20世紀初め数十年間は、12歳で就学終了する子供が多かった。しかし教育を継続する子供の割合は、第一次世界大戦の好景気にも後押しされる形で経済発展が続くと共に、着実に上昇した。1920年までには、65%程度の尋常小学校卒業生が勉学を継続していたようだ。そしてこの割合は、1930年に80%まで上昇した。もっとも一般的だったのは、高等小学校で2年教育を継続することだった。勉強に才があり、学費を払う余裕のある家庭出身の子供は、数々の選抜式中等学校を受験することができた。これについての詳細はこのウェブサイトの別ページを参照されたい。才能のある子供にとって他の選択肢は、師範学校または陸軍幼年学校を受験することだった。師範学校は男女別学になっており、当初は15歳で、後に14歳で入学することができた。小学校教師は勉強に才のある女子に人気があり、1912年までには小学校教員の1/3近くを女性が占めるほどだった。さらに師範学校は、学費が免除されていた。13歳から16歳で入学する3年課程の陸軍幼年学校の競争率は非常に高かった。陸軍士官の子息の学費は割引されていた。

選抜式中等学校、師範学校、陸軍幼年学校などに入学した少数派を除いて、大多数の日本の青年はこのウェブサイトの別ページで詳述されているように、14歳までには労働者として社会参加する確率が高かった。ごく少数の者が働きながら学べる現在の定時制学校にも似た「実業補習学校」に通っていた。教育を志しながらもが財政的に余裕がなかった者は、商業出版されていた、中学校やその他の教育課程の「講義録」を使って勉強に励んだ。他にも女子が、地元の裁縫の先生について個人的に裁縫(大抵は和裁)の指導を受けることもよくあったようだ。裁縫は女性にとって必要不可欠な家事技術だと考えられており、実際の裁縫仕事をすること、または指導することは重要な収入源になり得た。裁縫は小学校の授業で教えられていたが、一般的に更なる指導が必要だと思われていたようである。

小学校入学前の子供向け幼稚園は都市部には存在したが、余裕のある家庭の子供たちが主に通園していたようだ。しかし、何人かのインタビュー参加者は小学校入学前に「日曜学校」に通ったと報告している。これは宗教的な授業ではなく、小学校でその小学校の先生監督のもと、絵を描いたり歌を歌ったりする活動のことだった。「日曜学校」 は自治体主導の取り組みであったようだ。

教育制度の終点には高等教育機関があった。最も名門とされたのは、帝国大学に続く道である高等学校だった。1930年末までには、全部で9校の帝国大学があった。7校は、東京、京都、東北、九州、北海道、名古屋、大阪の日本本土(内地)にあり、あとの2校はソウル(当時の京城)と台北にあった。その他、多くは第一次世界大戦後に大学の称号を与えられた私立大学もあった。中でもっとも名門とされたのは、慶応と早稲田だった。 他の公立高等教育機関には、東京と神戸の高等商業学校(現在の一橋・神戸各大学)と、現在の筑波大学や御茶の水女子大学である男子・女子向け高等師範学校があった。他に名門とされたのは、陸軍士官学校と海軍兵学校だった。特に海軍兵学校は、入学人数が少なかったので更に名門とされた。それに加えて、第二次世界大戦後には大学と指定されることになる、数々の専門学校がさらに設立された。

ピーター・ケイブ

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ 「概観: 1900年~1945年の日本における教育」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]