1945年以前の日本の家族と家庭

1945年以前の公的に認可された家族構造の形態は、父系拡大家族で(理想的には男性)の家長が率いる「家」であった。この形態は、家父長とその妻子および跡取りである惣領とから成る直系家族と、家長より若い兄弟とその子から成る分家とで構成された。家長は、一家の法的・経済的な問題を親族会議で解決する責任を担っていた。

「家」とは、家族構成員の集まり以上のもので、名誉であり、職業である場合も多く、先祖代々の血統をも含んでいた。先祖の霊を祭るのは、家長の儀式的責任の一つだった。本家に男子の跡継ぎが無い場合は、分家から養子を迎えた。養子となった男子は、本家に娘(家娘)がいる場合は、その娘と結婚して本家の名を継いだ。

後継者が新たな家長になると、その弟達は、別途家を構えたが(現行の家族構成の住民票にも記載)、法的には拡大家族の一員として留まり、家長の統率下にあった。家長の姉妹は結婚し、それぞれ夫の家族の一員となるために家を離れるものとされた。

家族の構成員の詳細は、一家の結婚や出生、養子縁組、離婚、死別、祖先、社会的地位などを記録した戸籍に全て記載された。戸籍制度が導入されたのは、徳川将軍の時代(1600-1868)に遡るが、近代の「家制度」の公式な基盤となったのは、1872年実施の戸籍法と1898年制定の明治民法である。

明治の指導者たちは、空前の社会的地理的な人口流動が進む中、家族制度が社会的統制に便利だと考えた。生まれ故郷の農村を離れて都市部の工場で働く若い移民は、理論上その家族関係を通じて追跡できるし、病気になったり、障害を負ったり、失業したりした際、村に戻れば家長の庇護を享受できる。

さらに家族制度は、天皇中心のナショナリズムのイデオロギーの基盤だった。1890年には、皇室が日本という国家の直系である「本家」であるとして公教育の学校で、教えられた。天皇を究極の家父長とすることで、すべての日本の家族 が、地域の指導者への忠義のために分裂することなく、首長である天皇のもとに集結することとなった。皇室は、先史の時代から、万世一系の皇統とされ、国家の長寿を表象し、それに正当性が与えられた。全ての日本国民は、国家における本家に対する分家としての仮想的親族関係の恩恵によって、天皇の神聖な起源の神秘を共有したのだった。

さて、ここまでの説明は、法の基における理想の家族である。しかし実際は、移民が個々の核家族を都市部で築き、「本家」として別個の戸籍を作成したのだった。戸籍は、個人より家族を構成するものだが、1920年以来の国勢調査は西洋に倣って、文化的視点から社会の基本的単位を成人の個々人として、人口を集計したものだ。第二次世界大戦は、家族の完全性を浸食していった。なぜなら、(跡継ぎではない場合でも)息子たちや娘たちを家族から引き離して戦争のために働かせ、戦わせたからである(本ウェブサイトの「戦争役務のために子供たちを動員」のページを参照)。当時の厚生大臣小泉親彦は、軍需産業への女性の強制徴用が家庭における「良き妻良き母」としての女性の役割を損なう恐れがあると1942年に述べているが、戦時下の労働力の必要性は、小泉の懸念を覆すものだった。

このプロジェクトで行った一連のインタビューから、故郷から遠く離れた土地に配属された学校教員など給料をもらって働く従業員の家庭の子供たちよりも、地主の家族に育った子供たちの方が、伝統的な家族形態を経験していることがわかった。家族と国家の間に存在した密接なつながりは、仏壇に天皇の肖像を飾っていたというある事例が象徴している。

インタビューを受けた人々は、本家の息子や娘ばかりではないが、少なくとも幼年期の思い出として、孫を溺愛する祖母や祖父の思い出を語る人々は、概して本家の出身である。また、比較的裕福な家庭の出身者は、農業労働者や子守り、家事使用人や徒弟などについても語った。これら家族以外の人々については実に多様な名称が使われている。時には、疑似的な親族用語で「おねえさん」、「ねえや」などと呼んだり、より一般的な使用人を表す用語で「男衆」というのもあった。青森県では、「カリコ」という表現も使われていた。戦争末期になると、家族以外の労働者は国の労働力として動員されていった。

家庭生活に関するインタビューでは、公的な家族構成の形態に描かれるイメージよりも、柔軟で上下関係もゆるやかな様子が回想されている。家庭によって、「厳しい父とやさしい母」という両親の関係もあっただろう。食事や風呂に入る順番なども、母親が最後に風呂に入る傾向こそあれ、必ずしも守られたわけではない。ただし、大概は後継者である長男が、平均的に3人から7人いる弟や姉妹よりも強く責任感を教え込まれたようだ。(当時)跡取りとされていたが、戦後になって「反抗」し、農家や商売を継がずに大学に行ったと回想する人もあった。

長女は、母親を助けて家事を手伝い兄弟姉妹の世話をした。母の仕事は重労働だった。家事のほとんどをこなしたばかりか、農家の妻達は、農業にも精を出した。商家の妻達は、店を切り盛りした。地域の隣組の仕事も忙しかった。姉に「育てられた」思い出を話す人もあった。

こういった家族構成で暮らす子供たちは、自分の部屋を持たなかった。両親の布団で寝る幼児期を卒業すると、兄や姉と同じ部屋で寝た。最年長と最年少の兄弟姉妹の年齢差が大きかったので、年長の子が家を出て行くと、順番に幼い子が部屋の一角をもらって寝床とした。

子供の頃に片親を亡くした人も数人あった。父親の死は特に、経済的に大きな打撃だったようだが、中には母親に不動産があり、家賃で家計を立てた家庭もあった。孤児や、片親で子供を全員養育するのが難しい場合は、親戚が代わって世話をした。しかし、親戚と暮らすのは居心地が悪く辛い経験だったことが、インタビューの記録から示唆される。

生まれ育った家について詳しく述べた人もある。農家で育った人々からは、最低三畳から成る四つの部屋と畳もしくは木の床の居間という基礎的な家屋について説明があった。炊事洗濯を行う土間があるのも農家の特徴である。馬や牛の小屋が隣接する農家もあった(それらは、ロナルド・ドーアのシノハタの描写を髣髴とさせる)。水は、井戸から汲んで来た。井戸は家の中にある場合もある。農家で育った人々の幾人かは、典型的な農家の前にある大きな広場を回想しており、そこでは、米を乾かしたり子供たちが遊んだりしたという。長野県など養蚕を行う地域では、蚕の入った箱型の盆を所狭しと部屋一杯に並べたものだ。

ハリデー・ピエル&ピーター・ケイブ

文献の記載方法 

ハリデー・ピエル&ピーター・ケイブ 「1945年以前の日本の家族と家庭」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]