1900年~1945年の選抜式男子中等教育

尋常小学校を卒業後、選抜式中等教育を受ける志を持った男子は、5年課程の中学校に進むか、商業・農業・工業学校を含む数々の実業学校に進学することができた。実業学校には、「甲」と「乙」の2レベルあり、かなり複雑なシステムになっていた。期間は、2年間から5年間までと様々で、一般的に時代が進むごとに長くなる傾向にあった。商業学校は人気が非常に高くなり、また日本の重工業が発展した1930年代には工業学校にも人気が出た。

選抜式中等学校へ入学するためには、通常国語と算術(現在の算数)の筆記試験と面接試験を含む入試に合格しなければならなかった。合格率は一定していなかった。全国的に見ると、1915年には48%、1920年には39%で、1930年には69%まで上昇したが、1940年にはまた51%まで落ち込んだ。これらの割合は、国の経済状態と学校側の受け入れ可能な生徒数に左右された。経済が繁栄している時には、受験者が多く、競争率も上がった。選抜式中等学校に通うにはそれなりの費用がかかったので、中には能力がありながら入学できない生徒もいた。それでも、何らかの選抜式中等教育へ進学した男子の割合は、1915年の約15%から、1940年には33%まで上昇した。これは、息子に教育を受けさせ、将来の職業の展望を有利にし、中流層へ送り込むことが経済的に可能になった家庭の割合の上昇を示していると言えるだろう。

過剰な受験競争の子供への悪影響を心配する声は、1920年代でさえも強かった。文部省も事態を憂慮し、1927年に中等学校の入試で筆記試験を禁止したほどだったが、結局これは非現実的として、1929年には禁が解かれた。1940年には、同様の懸念により、中等学校入試が廃止された。その後は、第二次世界大戦後の教育制度改革まで、生徒の選抜は小学校からの報告書と面接試験のみで行われた。

中学校の教育課程は国語、漢文、英語が主となっており、最初の2年間は、この3科目が学科時間の半分を占めた。また中学校の最初の4年間は、週7時間英語の授業があった。理科、歴史、地理の時間は、それよりも少なかった。商業・工業・農業系の専門科目の授業があった実業学校でも、教育課程の大半は一般的な教科科目で占められていた。これらのどの選抜式中等学校においても、勉強は厳しかった。

中等学校卒業生のほとんどは、何らかの高等教育に進むことを目標とした。その中には、帝国大学に進学するための高等学校、陸軍士官学校あるいは海軍兵学校、私立大学、専門学校などがあった。1930年代中頃には、中学校卒業者のうち就職したのはわずか30%だった。しかし多くの生徒は、最初の受験で第一志望の大学に落ち、中学校を卒業した後、一年間浪人生活を送った。予備校は、現在でもそうであるように、このような学生に進学指導教育を提供した。このように、1920年代・30年代でさえも、日本ではすでに教育・学歴熱が高かった。

男子向け選抜式中等教育は、学科科目に加え、軍事教育の要素もかなり色濃く含まれていた。「教練」と呼ばれた軍事訓練は、1900年代から1945年まで、教育課程の一部に組み込まれていた。何日にもわたる訓練合宿では、複数の学校から上級生を集め、射撃練習も含めた集中訓練を行った。中等学校の学生たちは、40キロほどの長い行進訓練を行うこともあれば、軍隊生活を見学し、士官・将校から講義を受けるために、駐屯地を訪問することもあった。1925年からは、各学校に将校が配属され、軍事訓練を監督・評価するために定期的に実技点検を行うようになった。

選抜式中等教育は、普通の授業時間外に様々な課外クラブ活動を行った。運動部は生徒に特に人気があり、活動の様子は通常年一回発行される校友会誌に書かれた。校友会誌には、他にも学生の書いた作文や詩歌、大学教授や士官・将校等の訪問講師による講演なども載っていた。

ピーター・ケイブ

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ 「1900年~1945年の選抜式男子中等教育」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]