戦時勤労のために動員された子どもたち(学徒勤労動員)

1937年7月7日、当時支那事変と呼ばれた日中戦争の勃発後、日本政府は中国との全面戦争に備えて経済・社会統制を強化した。産業と労働を規制する国家総動員法が1938年に成立。戦争を支援するため、女性や若者のグループ、隣組などを統合し、動員する大規模な組織が設立された。小学生でさえも参加することを求められた。学校の休業期間になると、児童は農場へ派遣され、食料生産を増やす手伝いをした。

1939年までに日本軍は中国で泥沼状態に陥り、日本の国内経済は悪化しつつあった。銃後の労働力不足が深刻となり、1940年2月1日、青少年雇入制限令が成立し、12歳から年少者も軍需産業で働くことが許可された。11月21日に発令された国民勤労報国協力令は、男性(14—40歳)と女性(14—25歳)に求められた「勤労報国」の期間を延長した。

1941年、アメリカ合衆国は日本との経済関係を断絶した。続く12月7日の日本の真珠湾攻撃は、第二の戦線、つまり太平洋戦争が開戦するきっかけとなった。経済危機に直面し、政府は1943年6月4日に中等学校の生徒を重工業での勤労に動員する学徒戦時動員体制確立要綱を立案した。以前は男性によって行われていた仕事を生徒や若年女性が担うことが求められ、軍需奉仕に招集される人員数は一層増大した。

1943年6月16日の工場法戦時特例により、女性や16歳以下の若年労働者を長時間労働や夜勤から保護してきた既存の工場法は破棄された。それから約1年後の1944年8月、学徒勤労令及び女子挺身勤労令によって若年者の工場への大規模な雇用が可能になった。100万人をはるかにこえる中等学校の生徒たちが戦争のために労働に駆り出されることになった。

このプロジェクトのために収集したインタビューによると、農村地域の小学生はたいてい四年生になると農場の手伝いをし、畑を耕し、草抜きをして土壌を整えたり、さつまいもを植えたり、田植えをしたりした。秋になると、米と大麦の収穫をした。子どもたちのなかには、農場で育ち、このような仕事に幼い頃からすでに慣れていた者もいたが、ある都会で育った男性は長野県の農村に疎開し、このような仕事を重労働と感じた。ある女性は梨の熟成期間に実を守るために袋をかける仕事をしたと述懐している。また、少なくとも二人の女性が養蚕をしたことを記憶しており、そのうちの一人の女性によれば、その目的は「絹の落下傘用の絹を作るため」であったと述べている。おそらく、山での薪拾いが、子どもが行った最も一般的な作業であったようだ。農場での仕事を免れた、ある東京のエリート小学校の子どもたちでさえもこの仕事を行った。

田舎の中等学校の生徒たちも同様に、一年生もしくは時々二年生の時に農場での労働を行った。ある元生徒は韓国の農業組織の元で働き、またある別の元生徒は滑走路のために地ならしをしたことを記憶している。三年生になると、インタビュー参加者の中には同級生とともに産業での勤労に動員された者もいた。例えば、ある専門学校の生徒は、二年生の時に滋賀県の石山の軍需工場で魚雷の弾頭の点検をした。また彼の同級生のうち何人かは、神戸の航空機製造工場で働くはめになり、その工場はアメリカ人によって爆撃された。

インタビューから、仕事は概して性別によって振り分けられていたということがわかる。ある工場では、男子は旋盤、女子はドリルを使って働いていた。女子はたいてい織物部門での仕事を与えられ、制服を作っていた。但し、ある一人の女性インタビュー参加者は、航空機製造へ配置されることに抗議し続けたという。学校の卒業生(もしくは学校に行っていなかった若者)も生徒たちとともに挺身隊の一員として働くことができた。インタビューでは、ほとんどの生徒が愛国的で進んで勤労奉仕をしていたということが分かった。しかし、少なくとも一人は、勤労奉仕を逃れて勉学を続けることを望んでいた。多くのインタビュー参加者にとって、空襲と飢えが日常のストレスの原因だった。

ハリデー・ピエル

文献の記載方法 

ハリデー・ピエル 「戦時勤労のために動員された子どもたち(学徒勤労動員)」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]