1931年~1945年における子ども、教育、戦争

1931年9月、中国本土に駐在していた関東軍は、中国軍からの攻撃と偽って爆発を仕掛けた。これを口実に、軍部は満州(中国東北部)を占領し、傀儡国家である満州国を樹立した。満州占領は日本の新聞・雑誌・映画、そして『少年倶楽部』などの子供向け雑誌を含めたマスコミに熱く支持された。1932年に日本は満州国を承認したが、国際連盟がそれを認めることを拒否したため、日本は国際連盟から脱退する。中国の脆弱性と内部分裂によって日本軍の満州国支配と中国北部へのさらなる侵攻が可能になった。1937年7月、北京付近で起きた日本と中国の部隊間の小競り合いが、二国間の全面戦争勃発につながった。1941年12月、日本の戦機が真珠湾を攻撃し、日本は米国と英国に宣戦布告した。

1931年から1945年まで続いた衝突と戦争は、子供や若者に強い影響を与えた。その実例の一端である疎開や勤労奉仕などについては、このウェブサイトの別ページで取り扱っている。強調しておきたいのは、日本の教育制度において、1931年に愛国心が奨励され始めたわけではなく、それ以前の明治時代から続いていたことだ。軍事的英雄が、教科書の中の物語や歌、また芸術的公演を通して学校で讃えられていた。男子は高等小学校および選抜式中等学校で軍事訓練を行い、駐屯地を訪問し、軍装して長距離の行進を行った。1925年からは配属将校が、軍事教練の監督および指揮を行うために選抜式男子中等学校に配属された。愛国心と軍事熱は『少年倶楽部』のような雑誌の話の中でも喚起されていた。しかし、満州事変とその後に続く諸事変によって、1904年から1905年の日露戦争時のように、軍事熱を過熱させ、愛国的忠誠心を促進するさらに新たな機会が作り出された。たとえば運動会の演技の写真や小学校校長の訓示、校誌の小論文などにその証拠が見られる。召集された兵隊たちが町村を出発する時には、学生や生徒たちは見送りに連れて行かれたり、自発的に見送りに行ったりした。1937年に中国との戦争が勃発した際や1941年に太平洋戦争が始まった際には、召集される兵隊の数が増え、このような見送りの機会も増えた。こういった見送りの場で、子供たちは日露戦争時代から歌われてきた軍歌や当時新聞コンテストで優勝した軍歌などを歌った。インタビュー参加者の中には、遺骨として戻ってきた兵隊たちのために村を挙げて行われた葬式に、小学校全体で参加したことを覚えている者もいる。インタビュー参加者には、太平洋戦争勃発時が戦争体験の転換期だったと見る人が多い。その多くが、子供として、それ以前には戦争の影響を感じることはあまりなかったと語った。これは1937年以降の日本と中国間の戦争が当時の日本では「戦争」とは呼ばれず、「支那事変」と呼ばれていたことにも関係があるかもしれない。実際、インタビュー参加者の多くが80年経った後もこの言葉を使い続けていた。

満州への移民は1930年代を通して熱心に奨励され、1938年には満州・蒙古(現在のモンゴル地域)の開拓青年団である「満蒙開拓青少年義勇軍」が設立された。これは14歳から21歳までの男子に新開地の辺地へ移民することを奨励する組織である。設立から1945年まで、この団体は主に将来の展望が暗かった貧しい地方部から、9万人程度の若者を集めた。この移民計画を奨励するため、小学校は重要な役割を担い、満たさなければならない定員数を割り当てられさえした。しかし、非常に厳しく不慣れな環境下で、農業を営みつつ補助兵として行動するよう求められるという、若い開拓民たちにとって厳しい状況が報告され、招集人数は予想から大きくかけ離れたものとなった。これら若い開拓民の多くは、戦争末期のソ連軍による満州侵攻時に殺されるか、もしくは、それ以前にすでに死ぬこともあった。

私たちのプロジェクトのインタビュー参加者の多くは、日本国内で戦前・戦中に行われた様々な活動を覚えていた。これに関しては更なる研究が必要である。例えば、何人かは選抜式男子中等学校での活動で、軍人勅諭を暗記させられたり、冬に裸足で集会に参加させられたことを記憶していた。その他にも戦争が学校教育に影響を与えた点があるようだ。例えば、小学校の建物に入るときに整列して足並みを揃えて入らなければならなかったことや、美術の時間に、戦争を描いた作品のほうが良い評価を受けていたことを覚えいる参加者がいた。多くのインタビュー参加者は、学校で魚や肉などの「贅沢品」をお弁当に入れて持って来るのを控えるように指示されたり、白米だけのご飯よりも麦を混ぜた麦ごはんを持ってくることを奨励されたと言う。貧しい家庭の子供は、元々このような食べ物を弁当に詰めてくることはあまりなかったので、余裕のある家庭の子供のほうがこのような指示に影響を受けやすかった。女子は、スカートではなく、ズボン状の服「モンペ」を履くようになり、選抜式中等学校に通う男子は軍服式の制服を着るようになった。その他、竹槍を作り、それを使って予期される敵軍侵攻に備える訓練をしたことや、兵士たちに応援の手紙を書いたことを覚えている参加者もいた。女子によく課されたのは、「千人針」の布を縫うことだった。これは千人の人に針を通してもらった布のことで、この布を身にまとっていれば敵の火から身を守れると信じられていた。

1930年代以降は、中等学校の男子生徒の中に、卒業時に陸軍士官学校や海軍兵学校に入学するか、もしくは、15歳または16歳の時点で陸軍飛行学校か海軍飛行訓練学校(予科練)など軍の訓練学校に入学志願した者が増えたようである。1930年代には、14歳から入学可能な陸軍幼年学校の拡張が行われた。学校制度自体も、戦争の影響で様々な改革が行われた。1940年の小学校令改正では教育の目的が「錬成」であると定義し直され、「錬成」という用語が教育に関する論議においてしばしば「教育」の代わりに用いられるようになった。「錬成」とは、規律正しい訓練という意味である。学校側は、「錬成」を神社参詣や軍事訓練などの信仰的な活動を増やすことと解釈したようだった。何人かのインタビュー参加者が覚えていたのは、「宮城遥拝」と呼ばれる、朝礼時に東京の皇居に向かって深く敬礼する日課だった。もう一つ特記すべき教育改正は、1936年に設立された青年向けの定時制学校である「青年学校」である。これはかつての「実業補習学校」と「青年訓練所」を合併したものだった。青年学校は、14歳から20歳までの働く青年たちが余暇を利用して通学できるようにしたものだった。実際の学習時間は各地域の労働状況によってバラつきがあったが、大抵、週に二,三日、一日三時間程度だったようだ。教科科目を教える以外にも、男子を軍隊に送り込むことを目的に、軍事訓練も多く含まれていた。しかし、自主的入学人数が期待外れだったため、政府は1939年に通学を義務化した。戦争が末期に近づき戦況が悪化するにつれ、政府は1944年の政令により、商業学校を工業学校に転換するという手段に出た。これは商業学校に通う学生たちの反感を買った。

英米との戦争で、英米に対する敵対感情が高まっていたが、インタビュー参加者によると、それでも男子中等学校では、戦時中もずっと英語は教えられていたという。英語は教えるのを中断するにはあまりにも重要な教科であると判断されたのだった。その一方で、高等女学校に通ったインタビュー参加者は大抵、戦時中のある時期に英語は教えられなくなったと報告している。これは英語が女子にとっては必須であるというよりは、副次的なものと捉えられていたからかもしれない。「敵性運動」とされていた野球などのクラブは廃部に追いやられた。

戦争によって、健康な男性は兵役に取られてしまったため、労働力不足につながった。結果として初等・中等学校の生徒たちは、田畑や工場の労働力として使役されることになり、このウェブページの該当トピックで詳述するように、その時間は徐々に長くなっていった。また、疎開計画も施行された。これは別のページにおいて詳述されている。戦争末期の数年間で起きた食糧不足および集中的焼夷弾爆撃に最も影響を受けたのは、農家出身ではなく、特に都市部出身の子供たちだった。都市部のインタビュー参加者は、親に連れられて闇市へ食べ物を買いに行ったことや、栄養不足のために傷がなかなか治らなかったり化膿したりしてしまった思い出を語った。家や家族、もしくは命自体をなくす確率が最も高かったのも都市部の子供たちだった。これは広島・長崎に落とされた原爆はいうまでもなく、日本の大・中都市で何万人もの犠牲者を出し壊滅的ダメージを与えた焼夷弾攻撃が原因である。

ピーター・ケイブ

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ 「1931年~1945年における子ども、教育、戦争」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]