1900年~1945年の初等教育

近代の初等教育体制は、1868年の明治維新の4年後である1872年の学制制定によって確立された。しかし実際に学校を設立し、教師を集め、教材を提供し、大多数の家庭に子供を通学させるように説得するまでにはさらに長い時間を要した。90%近くの子供たちが小学校に通うようになるには20世紀初頭までかかったが、当時の時代背景を考え合わせると、これは偉業だったと言える。1930年代までには子供が小学校に通わないということはほとんどなくなっていた。しかし、このプロジェクトでインタビューした参加者の中には、被差別部落の家庭出身の人もおり、彼らは仕事をする必要があったため、授業に出られないことも多かったと語った。

初等教育は義務化された「尋常小学校」と、そうでなかった「高等小学校」に分かれていた。1907年以降は、尋常小学校は6歳から12歳までの6年間で、高等小学校は通常12歳から14歳までの2年間だった。(3年制高等小学校も極少数存在した。)1920年には、尋常小学校卒業生の半数ほどが高等小学校に進んだ。この比率は徐々に上昇し、1940年には70%近くに達した。

小学校の教師になるためには、「師範学校」と呼ばれる教員養成学校を卒業し、教員資格を取るか資格試験に合格しなければならなかった。師範学校には二課程あった。一つは高等小学校卒業生向けの4年課程で、もう一つは選抜式中等学校卒業生向けの2年課程だった。小学校教員養成課程に最も魅力を感じていたのは、農家出身の子供たちである。師範学校の学費は無料だったのだ。しかし、小学校教員の給料は高くなかった。正教員としての資格は持っていなかったが、教員の中でも存在感のある少数派であった「准教員」と「代用教員」については、特にそうだった。代用教員の中には16歳ほどの若さの者もいた。しかし、教職は女性にとって魅力的な職だった。この時代の日本は、他の国と違い、女性は結婚後、教職を離れることを要求されなかったためでもあろう。1925年までに、初等学校の教員は37%が女性で占められた。高学年の子供たちは男性教員に教えられることが多く、女性教員は低学年の子供たちを教えることが多かった。1930年後半以降、より多くの男性教員が兵役に志願したり召集されたりするにつれ、女性教員や代用教員の比率はさらに上がっていった。

1945年以前の師範学校はその厳格な規律に基づく生活が批判されている。学生は、将校に監督された寮で、寮生として生活しなければならなかった。上下関係と従順性が優先された。このような教育は、形式と権力を重く見過ぎる教師を輩出する傾向があるとして批判されたこともある。しかし、それにも関わらずなのか、はたまた、こうした教員養成体制のおかげなのか、小学校教員の中には積極的な指導法改革者がかなりの数存在した。

私たちのプロジェクトのインタビュー参加者たちは、一般的に教師のことを良く思っていたようだ。しかし、教師のうち何人かは、ある特定の生徒や、上層の家庭出身の生徒を贔屓したことについて批判されている。教師が選抜式中等学校の入試に向けて勉強している小学6年生の子供たちに、学校で補講をすることは一般的だったようだ。何人かのインタビュー参加者は、例えば写生という共通の趣味があったために週末に教師に会いに行ったことがあると話していた。列車や自動車が広く普及する前の時代、教師は通常地域に住み、学校には徒歩か自転車で通った。

小学校のクラスは男女別の場合も、男女混合の場合もあった。一年生から二年生の時は、男女混合の場合がより一般的で、三〜四年生からは、別々になることが多かった。しかし、クラスが奇数ある場合は、ひとつは男女混合のクラスになることが多かった。1クラスあたりの生徒数は、50人ほどが最も多かったようだが、人数にはかなりのバラつきがあった。インタビュー参加者の中には、生徒が60人から70人もいるクラスを経験したと語る人もいる。一方で、農村の小さな学校では、一年生と二年生、三年生と四年生、五年生と六年生の生徒たちが、それぞれ二学年ずつ同じ教室で教えられることもあった。

子供たちの中には、家族が忙しく家で面倒をみる余裕がなかったので、就学前の弟や妹を学校に連れていく者もいた。小さい弟や妹の世話をする「子守」は、子供に最も多く与えられた仕事だった。これは特に女子にとってそうだったが、何人かの男子にとってもそうだった。

インタビュー参加者の中には、高等小学校で制服を着たのを覚えている者もいた。それに対して、尋常小学校では、制服があったとしても、ごく稀だった。しかし時々、男子用の帽子があったようだ。当初、子供たちは着物を着て学校に通っていたが、1920年代から30年代にかけて、洋服を着る子供が増え始めた。これは、都市部から始まった流行だった。男子の洋服は「学生服」と呼ばれ、戦後日本で一般的に男子中学・高校生がよく着た立襟ジャケットの制服によく似たものだった。インタビュー参加者の回想から判断するに、後に小学生にとって一般的となったランドセルは、1930年代から40年代頃は、通学カバンとしてはあまり使われなかったようだ。インタビュー参加者の多くは、布やズックで作られた肩かけカバンを使ったと言った。

インタビュー参加者が報告した、最もよく与えられた罰とは、廊下に立たされることだった。もっと厳しいケースだと、子供は立ったまま、水の入ったバケツを持たされることもあった。インタビュー参加者の何人かは、罰として教師が子供を手や棒で叩いていたことも覚えていた。

また、インタビュー参加者の中には、学校でのいじめを覚えている人もいた。彼らの回想によると、子供は様々な理由でいじめられた。例えば、他の地域から越してきて話し方が違うから、天然パーマだったから、裕福な地主の子供で嫉妬されたから、反対に貧しい家出身で父がいなかったからなどである。

ピーター・ケイブ

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ 「1900年~1945年の初等教育」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]

学習

授業時間の側面から見ると、尋常小学校における最も重要な教科は「国語」と「算術」(現在の算数)だった。
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式典・学校行事

当時の小学校教育では、科目の学習のみならず、儀式や行事が大切な役割を担っていた。

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