マスコミと大衆芸能

日本でマスコミや大衆芸能が普及し始めたのは、1920年代からだが、生まれ育った場所や家庭の経済状態で格差があった。裕福な家庭に育ったインタビューの協力者達は、絵本や子供の雑誌を買ってもらったことを思い出し、何人もが『少年倶楽部』という当時売れ行き一番だった雑誌と、それに掲載された連載漫画の登場人物である軍犬の「のらくろ」や、日本人の少年が南の島の王になる物語の「冒険ダン吉」などについて回想した。男子用の雑誌には、冒険譚や勇ましい軍記、空想科学、当時の戦記に加えてノン・フィクションの記事なども掲載されていたが、先述の人気キャラクターが登場する連載以外の内容について思い出した人はほとんどなかった。

インタビュー協力者の全員が雑誌を買っていたわけではない。友達や親戚などに借りて時々読んでいたようだ。女子の中には少女向け雑誌の『少女倶楽部』を買ってもらっていた。しかし、雑誌を読んだ記憶について全くふれない人や、読む機会を全く与えられなかったという人も多かった。大人向けの雑誌である『家の光』や『主婦の友』、『キング』などについて覚えている人もいた。戦時下の子供たちの日記には、新聞の連載漫画のキャラクターとして人気を博し、レコードや映画にもなった「フクちゃん」なども登場する。

子供時代に学童疎開した人や十代の頃に学徒勤労動員を経験した人達は、大人が来て物語りや(紙)芝居や講話などをしてくれたのを覚えており、地域に住む帝国在郷軍人会や国防婦人会のメンバーが来る時は、特に愛国的な物語と戦時下の価値観を伝播する国策的な内容だったという。

当時、ラジオか蓄音機、または両方を持っていた家庭もあったが、あくまでも少人数で、インタビュー協力者の中でも僅かだった。また、ニュースを聞くために1940年以降に購入したという人もあった。かなりの人数が、少なくとも太平洋戦争以前では夜間しか電気を使えなかったと話した。ラジオは、家族のみならず、住み込みの使用人や隣り近所の人達と一緒に聞いたと語った。

インタビューを受けた人達の中で(特に女性は)、10代の頃小説を熱心に読んでいたという。吉屋信子の少女小説から武士を描いた時代・歴史小説や、田山花袋などの文学小説、小林多喜二らのプロレタリア文学の小説まで興味の対象は多彩だった。郷里の図書館に通って本を読んだ思い出を話す人もあった。

近所に映画館があったとインタビュー協力者の多くが答えているが、皆が実際に映画館に行ったわけではない。学校で映画を見たり、学校から引率で映画を見に行ったりした。戦時中には、軍国的な映画を見た記憶がある人もあった。概して、子供時代の一般的な余興として映画を思い出す人は少ないようだ。それに比べて当時の子供の日記には、特に戦時中の疎開と勤労動員の文脈で、映画が頻繁に出てくる。プロパガンダ性の強い「くもとちゅうりっぷ」や文化映画と呼ばれたショートフィルムなどのほか、「日本ニュース」などの国策映画が、集団疎開先や動員先で上映された。

そのほか定期的にやって来る芸能の中でも大道芸人による紙芝居について思い出す人が多かった。しかし、紙芝居は学校で教員が行うこともあった。演者が観客に向かって小劇場のような体裁の箱に入った何枚もの絵を順番に一枚ずつ見せながら、それについて物語を聞かせていくという簡素な絵芝居である。駄菓子を買った子供たちは、一番前に座って紙芝居を観賞することができたが、買えない子供や大人は後ろに並んで見せてもらった。内容については限られた記憶しかないようだが、民話や戦記ものなどが含まれていたという。戦時中に大量に作られた紙芝居は、政府の紙芝居同業者協会によって検閲・統制されたものだった。それに対し、疎開以前や疎開中にも多くの教師が独自に作り、教材として使用していた紙芝居の内容は、国策紙芝居に比べて軍国主義色が薄く、有名な歌舞伎の場面や学童疎開先での生活、または宗教的逸話などに題材を得たものだった。

ほかに、さほど頻繁ではなかったが、人形劇(青森県)やサーカス(滋賀県)などの地方巡業もあった。また、日誌には、疎開中に自分たちが兵舎を訪れて子供芝居を演じたり、兵隊らの歌う軍歌を聞いたりしたという記録も多い。

ピーター・ケイブ、アーロン・ムーア、ハリデー・ピエル

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ、アーロン・ムーア、ハリデー・ピエル 「マスコミと大衆芸能」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]