食料と食事

ほかの日常生活の側面と同じく、食料と食事に関する子供たちの経験は、家族がどこに住んでどんな職業を持ち、どんな社会経済的な状況にあったかに影響される。食料に関するインタビューを受けた人々の回想は、年令によっても異なった。1941年の太平洋戦争勃発が、一般的に戦時下の生活を初めて認識するようになったきっかけとして思い出され、それ以前の子供時代の記憶があまりない人もあった。

家庭の主食についての質問に対して、ほとんどの人が米と麦を混ぜた麦飯と答えた。麦の粒は米の粒より大きいので、茶碗が埋まる。当時の農家は、水田と畑の両方で穀物を育てることが多かった。純白米を食べた思い出について語る人もあった。一般に、肉や卵は贅沢品で値段が高かったという記憶で一致し、肉はよほど裕福な家庭でない限りあまり食されなかったそうだ。卵を取るために養鶏する農家も多かったが、鶏肉を食べるのは特別な機会のみだった。インタビューを受けた人の中には、うさぎを飼った覚えのある人もあり、犬や馬の肉を食べたことを回想する人も少人数あった。魚を食べたという人は比較的多かったが、近年では下魚とされるものが多い。例えば、鰯(イワシ)、鯖(サバ)、鰊(ニシン)、秋刀魚(サンマ)などである。湖や川の近郊では、自分で釣をして魚を取った。青森県の人々は、旬になると魚を大量に買って塩漬けにしておき、それを一年中食べたものだと回想している。野菜や味噌汁も主菜だった。

1941年になると配給制が導入された。太平洋戦争の最中の食料不足は、田舎より都市部で深刻だった。地方の農家は、自給自足で凌げたからだ。都市部で育った人々は、食物を捜して頻繁に田舎の外れまで「買い出し」に出たことを覚えている。しかし、比較的余裕のある農家でさえ、戦前より米を食べられなくなっていった。というのも、配給制の調達のために米を政府に売らなければならなかったからだ。インタビューの回答によると、戦争末期の数年間は、ほとんどの人々が、米をサツマイモやカボチャなどと混ぜ合わせたり、お粥にしたりして何とか量を増やそうとしたようだ。中には、白米だけで麦や野菜と混ぜたものでなかったとか、おかずがついていたなど、弁当箱の中身が戦時下にしては贅沢すぎると教員に怒られたのを回想する人もあった。(子供たちは、弁当箱を学校に持って行くか、近い場合は家に戻って昼食を取った。学校給食は、戦後に生まれたものである。)日本の戦時中のカロリー摂取は、戦時下の英国や米国はもとより、ドイツに比較してさえも非常に低かった。インタビューの対象者の多くが、校庭の運動場を耕して野菜を栽培した思い出を語った。東京の学校を離れて田舎に疎開した人々によると、母親が疎開先の子供に食事を送ることは禁止されていたので、配給制度の公的栄養摂取量に基づいた毎日の食事に慣れるのが取り分け辛かった、という。このウェブサイトの都市部の子供の疎開について述べたページにも書いたが、自らも切羽詰まった田舎の人々の 善意とわずかな配給とに頼るしかない疎開先の子供たちは、頻繁にひもじい思いをしていたのである。

インタビュー対象者の中には、川や田んぼや野原で、魚や貝、カニ、ザリガニ、エビ、またはイナゴなどの虫を取って家族の食料の足しにしたのを覚えている人もあった。松茸など野生きのこを野山で集めた思い出を話す人もあった。これらは戦争中に限ったことではないが、戦時下の食料難において、常時より重要な意味合いを持ったのだろう。

また、駄菓子屋と呼ばれる地域の雑貨店で買った簡素なお菓子やおやつについて話す人もあった。ただし、戦争末期には、お菓子なども姿を消したという。

いずれにせよ、インタビューの大半の回答によると、食料の欠乏と日々の生活で最も苦しんだのは戦時中ではなく、敗戦直後だったという。道端など使える場所は全て使って野菜を育てたのを回想する人もあった。

ピーター・ケイブ

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ 「食料と食事」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]