1925年から1945年の働く青少年

1900年から1945年にかけて、日本の子供の大半は14才までに正式な教育を終えた。実際、1920年代までほとんどの子供は12才で尋常小学校卒業時に学校を離れた。1930年代になっても、10から20パーセントという少数とはいえ無視出来ない割合の子供たちが、12〜14才で学校をやめた。定時制もしくは全日制の裁縫教室などで民間の教員から非公式な教育を受ける女子もいたが、大半は小学校卒業と共に家庭の労働力の一員として農場や商売を手伝ったり、奉公人・使用人になったり、または賃金を受けて働いたりした。

この時代、ほとんどの青少年は14才から働いたものだが、それについての研究は稀少である。最も重要な労働形態は、奉公人・家事使用人、工場労働者などで、人口調査の結果によると1920年から1940年の間に10〜20パーセントの男子が見習いとして雇われている。この研究のインタビューに協力したある人は、13才の時に京都の呉服屋に奉公した。また、家業を営む家庭の出身者二名は、住み込みの徒弟が居たことを回想している。奉公人たちに支払われるのは大抵、最低賃金だった。当時の奉公人の報酬とは、住む場所を得て食事を与えられ、仕事を学ぶことだとみなされていた。

家事使用人の仕事は、統計データに限りがあるため実際の数値は定かでないが、重要な女子の雇用先だったことには違いない。奉公人と同じく、家事使用人は一般的に住み込みで最低賃金だった。小間使いになった女子の多くは、将来妻や母になる準備としてスキルや作法を身につける目的と共に、家族の経済的負担を軽減する目的もあった。住み込みの子守りとして雇われた少女を主人公とした Simon Partner(サイモン・パートナー著書)の Toshié(「トシエ」)は、当時の様子を例示している。

多くの女子たちが製糸業やその他の繊維工場で働いた。インタビュー協力者の中には、そのような経験のある人は少なかったが、長野県で育った人々の幾人かは、12才で学校を離れた級友の多くが、製糸工場に勤めたと話した。製糸工場で働いた経験のある人は、長時間労働と家族を離れて暮す辛さについて語った。しかし、家庭より食事が良かったのを喜んだ人もあった。

都市部の高等小学校を卒業した女子は、電話交換手やバスの車掌、受付係など、家事手伝いや工員などに比べて格段人気の高い職に就くことができた。しかし、1940年になってもまだ、事務職に雇用される女子は、農業や工業関係に就職する女子に比べると極めて少なかった。

インタビュー協力者のうち太平洋戦争勃発以前の尋常小学校もしくは高等小学校に通った人はわずかな人数だった。そのうち男子二名は建設業で働き、満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州に行く事を考え、一名は日本より良い未来があると信じて実際に渡航した。もう一名は、東京の戦車製造工場で働いた。そのほか四名が働きながら定時制の青年学校に通ったことについて述べた。そのうち一人目は呉服屋の使用人になり、二人目は、大阪のベアリング製造工場に勤め、三人目は金沢の親戚が営む糊屋で働いた。四人目は、長男として家族の農場で働いた。青年学校の教育内容については、地域で異なる。京都の徒弟は染め物技術を習い、農家の息子は農業を学んだ。しかし、どこでも必ず軍事訓練が含まれていた。女子のうち二名は、12才で製糸工場に働きに出て、そのうち一名は、二年後に戻って家族の零細製糸業に従事した。もう一名は大阪市内で育ち、高等小学校を卒業後、五年間ほどお使い(給仕)として、大阪の大きな郵便局で働いた。四人目は、家族の農場と紙すき業に従事し、五人目も家族の農場で働いたが、後に満州の伯母の家を手伝いに行き、その後に伯母の友人の家庭のお手伝いとして三年間過した。これらは小規模のサンプルだが、日本の若い人達が当時どのように働いていたかについて教えてくれる。

ピーター・ケイブ

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ 「1925年から1945年の働く青少年」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]