1944年~1945年の戦時中日本における小学生の疎開

太平洋上の日本の戦況が悪化するにつれ、1944年初頭には、連合軍の爆撃機が市街に住む一般人を攻撃するため、まもなく本土まで飛来するであろうことは明白だった。政治家は、国会での公開討論や秘密裏の政府会談で、子供たちを都市部から疎開させるべきか、するならいつ疎開させるべきかを議論した。日本の指導者たちは、敗戦を公表せずにいかに子供たちを避難させるかを決定しようとしていたが、空襲開始に追い込まれる形となった。

第二次世界大戦時はどこでもそうであったように、日本でも二種類の「疎開」があった。一つ目は個人的な疎開であり、二つ目は政府に組織されたものである。政府が小学生の「学童集団疎開」を組織する前に、すでに多くの子供たちは親戚や他の人を頼り「縁故疎開」を通して都市から離れていた。多くの子供は祖父母や体の弱い親戚など、政府や社会が戦時労働にあまり役立たないと判断した大人と共に都市部を離れた。戦時中を通し、8歳までのごく小さい子供は家族と共に都市部に残り、連合軍の空襲作戦にさらされた。同様に、12歳から17歳の高等小学校・中等学校の生徒たちは、大人の戦争労働と国防を手伝うために都市部に残った。(「学徒勤労動員」のページ参照。)

1944年6月30日には、田舎に親戚のいない子供たちがいる場合、地方自治体が集団疎開の資金を出せるよう国会で制定された。米軍がサイパンに足場を作り、日本本土空襲計画をより容易に実行できるようになった7月7日以降、防空総本部は小学校3年生から6年生までの子供は疎開させるという方針を発表した。7月20日には、文部省が12の大都市の集団学校疎開に関する方針を発表した。東京からの学童集団疎開は1944年8月4日に開始された。

英国同様、中央政府は首都を守ることを第一義としたが、地方都市の中には首都部よりも世帯あたりの被害がひどい所も出てきた。まず最初は東京からの疎開が行われ、その後すぐに沖縄県、大阪からの疎開と続いた。川崎、名古屋、神戸、九州北部など他の重要工業地帯からも1944年10月までには疎開が完了し、それまでに40万人の子供が疎開した。戦争が終わる頃までには、100万人以上の子供たちが自宅から疎開させられていた計算になる。

日本政府は英国を含む他国の集団疎開体験についてすでに調査しており、疎開先の地元の人々による児童の虐待や教育機会の喪失などの過去の過ちが繰り返されないよう神経を尖らせていた。このため、教員には、子供たちに付き添い、保護者、教育者、道徳的模範としての役割を担うよう命令を下した。この令によると、これら教員は、兵役に召集された兵士同様の覚悟を持って、付き添う児童たちの教育という任務に注力するすべきであると定められていた。また別の公式文書で、当局は疎開児童がどのような物を持参すべきかの例を挙げ、子供たちの面倒をしっかり見ることを請け合い、親たちを安心させようとした。

英国同様、日本の子供たちも名札を与えられ、重量制限のある必需品の入ったリュックサックと共に疎開先に送られた。これらの子供たちは地方に到着した途端、地方当局や疎開先の家庭の悩みの種となった。政府は彼らに完全なる協力と支援を求めていたのだ。都市部の子供たちは、家族の支えのない完全な異世界に突然放り込まれた。唯一の支えは国家機構であったが、政府には他に憂慮しなければならない優先事項がいくつもあった。ほぼ手当たり次第に個々の家庭に割り当てられた英国の子供たちとは違い、日本の子供たちは、多くの場合、集団で寺院・温泉宿・その他の大型地方施設に宿泊した。個人の日記や手記、当時の子供たちの手紙などを見ると、日本のシステムのほうが僅かながらでもトラウマが軽かったようであることは、せめてもの救いであり、それは同級生たちと共にいられたことが理由であったようだ。英国と比較した場合、これは確かに重要な違いではあるが、それでも子供たちの経験の良し悪しを最終的に左右したのは、農村地域の人々の親切さと有能さの程度によった。

それにもかかわらず、英国で子供の疎開経験をトラウマにした出来事は、日本でも起こった。まず「軟弱児童」は政府の管轄下に置くには難しすぎると判断されたので、親戚に送られることになっていた。次に、労働階級出身の子供たちはかなり厳しくあしらわれることがあった。3年生から6年生の、東京の下町出身の児童たちは、シラミ除け粉薬を振りかけられ、夕食として貧しい学食を食べさせられ、地元の人々に疑いの目を向けられていた田舎の寮に送られた。一方、私たちのインタビューによれば、少なくとも東京の名門学校に通っていた子供たちは、地方の資産家たちの家庭に割り当てられたようだった。このような家庭は、僅かながらでも快適な環境を提供することができた。集団疎開した児童のグループがどのような生活環境に置かれるかは、校長か生徒の親がどれだけのコネクションを持っているかによった。

地方は都市部よりもましだとは言え、食料は全国で不足しており、疎開児童は余計な負担だと見られることもあった。日本の疎開児童は、一日あたり二〜三合程度のコメと少量の漬物とサツマイモ程度しかもらえず、肉・魚は稀にしかもらえないごちそうだった。時々、子供たちは生き残るための糧としてカエル、カニ、うなぎなどを捕獲する方法を教えられた。地元の農家からの贈り物は特別なごちそうだった。「地元の人たちに好かれるようにしなさい」という先生から子供へのあけすけな忠告もあった。戦争末期の何ヶ月間かは、米の配給量がさらに二合以下となり、子供たちは常に空腹感を抱えるようになった。こういった状況下で、見つかればひどく殴られることがわかっていながらも、子供たちの中には空腹のあまり地元の農家から盗みを働くようになった者もいた。

疎開は子供たちにとってより安全な選択肢であるとは限らなかった。子供を虐待する大人もいたし、子供たちはいつも空腹を感じていた。英国同様に、徐々に子供たちは授業に出されるよりも農作業に従事させられるようになっていった。最も極端な例としては、1945年に名古屋から愛知県の田舎に疎開させられていた子供たちが寺の中で寝ている時に大地震が起きて寺が崩壊し、死亡したことがあった。その時に亡くなった子供たちの両親は、このことについて何週間もの間知らされず、政府と学校が子供たちの面倒を見ていると信じていた。このことを踏まえれば、なぜ連合軍の空襲攻撃が始まっても、多くの家族が子供を手放さなかったのか、その理由がわかる。

とは言っても、子供たちの残した記録や後に大人になってから書かれた生存者の記録は、辛い日々を描いたものばかりではなかった。多くは温泉に行ったり、自分のおもちゃを作ったり、友達と遊んだりした楽しい日々を記録している。都市部の子供たちは生まれて初めて、冬にはスキー、そり遊び、スケート、夏にはハイキング、釣り、水泳を楽しむことができた。ほとんどの疎開児童たちは戦後、友情を保ち、いまもなお、再会しては当時の田舎暮らしの思い出を語り合っている。

アーロン・ムーア&ハリデー・ピエル

文献の記載方法 

アーロン・ムーア&ハリデー・ピエル 「1944年~1945年の戦時中日本における小学生の疎開」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]