日本の植民地の子供たち

1895年から1945年にかけて日本帝国はどんどん拡大していった。1931年の植民地は、台湾(1895年以来)、南樺太(1905年以来)、そして朝鮮(1910年以来)だった。これらは外地と呼ばれ、(現在は47都道府県から成る)本国の日本は内地と呼ばれた。それに加え、日本は1905年に中国遼東半島の租借権を得て、1919年以降は国際連盟により、広範囲の南洋諸島を委任統治した。これは、第二次大戦中アメリカ合衆国に占領されるまで続いた。日本は1931年、中国東北部を奪取して傀儡国家の満州国を建国し、公ではないが、実質的に満州国を大日本帝国に取り込んだ。同じく、帝国は1937年以来、ナショナリストの前政府の首都、南京に設立した汪兆銘政権の「中華民国南京国民政府」を含む中国の各政府を擁立・監督した。

日本の植民地の子供たちの大半は日本人ではなかった。その子達についての研究も重要ではあるが、この研究プロジェクトの焦点ではない。しかし、ここで特記すべきことは、植民地の教育において、海外駐在の日本人の子供たちと、植民地の子供全体の大半を占める日本人以外の子供たちとの間で異なる教育制度が用いられていたことである。日本の内地の初等教育、中等教育、高等教育の制度は、植民地にも適用され、「帝国大學」が台北や京城(ソウル)にも設立された。このような教育制度は、少数の台湾や朝鮮の裕福な家庭の子供も通ってはいたとはいえ、主に植民地に住む日本人家庭の子供たちのために用意されたものだった。特に日本統治下の初期には、非植民者の子供たちの多くが、公教育を全く受けていない。受けたとしても、内地の子供と分けられ、内容も制限された公教育制度である(普通学校、もしくは公学校と称された)小学校と高等小学校に通ったのだった。

この研究プロジェクトのインタビュー協力者の中には、日本の植民地で幼少期または青年期を過した人が少数あった。台北で日本の植民地政府の官僚の家庭に生まれた女性二名は、敗戦後に日本に帰還する以前、台北の小学校と高等女学校に通った。もう一名は、1930年の初頭に富山県の高等小学校を卒業後、台北に渡って姉と一緒に暮らした後、結婚し、1945年まで台北で暮した。三人とも台北での暮しは楽しかったと語っている。ある男性は、朝鮮の警察に勤めていた伯父の影響で、農学校を卒業後、朝鮮に行って公務員として働いた。また、二名は満州で暮したという。そのうち男性一名は満蒙開拓団(ウェブページ「1931年—1945年の子供たち、教育、そして戦争」を参照)として、女性一名は、満州の電気産業に勤める夫を持つ伯母の家事手伝いとして、満州に渡った。人数は少ないが、このような体験談は当時の子供たちや若い人達にとって日本帝国がいかに大きな存在だったかを浮き彫りにしている。

ピーター・ケイブ&アーロン・ムーア

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ&アーロン・ムーア 「日本の植民地の子供たち」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]