1925年〜1945年の近代日本における児童期、教育、青年

1925年から1945年の20年間、日本帝国は世界の強国の一つとなり、隣接諸国に対して幾つもの侵略戦争を始めた。これは最終的に、米国への「真珠湾攻撃」と「太平洋戦争」(1941年〜1945年)へと続いた。都市部への壊滅的な焼夷弾爆撃の後、1945年の広島と長崎への原爆投下、満州へのソ連侵攻を経て、帝国は崩壊し、日本は戦後復興と民主主義化への道を歩み始めた。すなわち、この時代を生きた若者たちは、日本の現代史において最も重要な時期を生きていたといえるであろう。

1868年、革命家たちが徳川将軍を倒し、明治天皇のもとに新政府を設立した。教育制度・軍隊・政治経済全ての面において、劇的な、かつしばしばトラウマを伴う改革が行われた。統治制度面では、日本帝国は1889年からドイツや英国のような欧米列強に似た立憲君主制になった。日本の国会には貴族院という、選挙で選出されたのではない世襲貴族や、財界および軍の重要人物で構成された議会があった。予算と国民に対する税金を承認するのが主な責務だった下院は、直接選挙により選出されていたが、女性は1945年以後まで選挙権がなく、男性も全員が選挙権を得たのは1925年になってからだった。それ以前は、富裕層の男性のみが選挙に参加することができた。選挙権を持つ人口は、英国の場合同様、時を経るとともに拡大していった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、先進的民主派は選挙権の拡大を要求した。各政党は、施政方針を決定することに徐々に積極的になっていった。

現代に生きる私たちからすると、民主化により、日本は他国との衝突から遠ざかったというより、むしろ外交方針がより好戦的になったということは意外かもしれない。英国やフランスと同様、当時の子供や十代の若者たちは、自国の政府が国益を守るために、他国を侵略・占領・併合するのは必要なことだと受け止めていたのであろう。近代以前にも、現在の沖縄諸島に位置していたかつての独立王国・琉球国や、北海道のアイヌ民族も封建藩主たちに従属させられていた。1868年から日本帝国は近代的軍事装備と組織に助けられ、台湾(1895年)、朝鮮(1910年)、アジア太平洋地域のドイツ植民地(1918年)、「満州国」と呼ばれた満州の傀儡国家を獲得し、中国本土でも数々の特別権益を得た。日本政府は、1941年にアジア太平洋地域における欧米列強の植民地に対し「アジア人のためにアジアを解放する」と掲げて宣戦布告するや否や、短期間でフィリピン、ベトナム、インドネシア、中国本土の傀儡国家群を含めて、世界史において最も大きい帝国の一つになった。大多数の日本人は、英国やフランスなど他の帝国でもそうであったように、領土拡大のための戦争を支持した。そして何百万人もの日本国民が、しばしば子供を連れて帝国各地に移住した。

日本政府は帝国化を進める一方、中国本土での戦闘的愛国主義の台頭を無視するようになっていった。特記すべきは、中国国民党の蒋介石が1927年に権力を握った時に、厳格な反日的姿勢を取ったことだ。1937年には、現地の日本部隊が北京近くのマルコポーロ橋で中国部隊と衝突することで「事変」を起こした。中国側はそれに対応する形で、上海における日本勢力の影響を消し去るために部隊を送り込んだ。日本軍は、中国政府が4ヶ月で崩壊すると傲慢にも予測したが、実際その4ヶ月後になってみると、日本軍は上海から郊外に追いやられ、日本史上最も破壊的な戦争に巻き込まれることになっていた。中国は降参することを完全に拒否したため、日本帝国は国際的信用と多大な富・資源・兵力を同時に失うことになった。さらに本土の日本人は、銃後で配給が始まると、政府が戦争を解決できないことに不安と苛立ちを感じ始めていた。

特に力強い味方もおらず敵ばかり増加し、また、石油や鋼鉄などの重要資源の備蓄が減少していく中で、日本政府は1941年に真珠湾攻撃を遂行した。中国政府に同情的だった米国は、日本に対して経済封鎖を計画した。日本軍部は、資源豊富なオランダ領インドネシアの油田などヨーロッパ領を征服することで中国との戦争を解決し、その後にアメリカに対して消耗戦を展開することで帝国を維持しようとした。太平洋において、日本はいくつか連続で戦勝を収めていたが、真珠湾攻撃が米国の航空母艦艦隊を攻撃し損ねたため、この時点で日本帝国は崩壊に向けて秒読み階に入っていた。しかしこのことは、その後続いた偉大な「戦勝」を祝っていたほとんどの日本人にはわからなかった。確かにアジア太平洋戦域への侵攻は現地のヨーロッパ帝国主義支配に回復しがたい損害を与え、1942年に英国はシンガポールで史上最大の敗北を味わった。この時期、日本国内では政府が国会内の各政党を解体し一党制度を敷いていた。各産業界では合併が強行され、会社間競争が減少し、労働組合が解体された。また、マスコミには厳格で好戦的な検閲体制が敷かれ、政府を支持する(青年団を含む)各社会団体が支援された。日本政府および社会は、徐々にヨーロッパの、いわゆるファシスト国家の様相を呈してきていた。

1942年、ミッドウェーでの米海軍の勝利に続き、双方に多数の死傷者を出しながらも、1942年から1943年にかけて米海兵隊・米陸軍はソロモン諸島のガダルカナル島に足がかりを築いた。米軍は「飛び石」作戦を繰り広げ、日本帝国の防衛部隊に対して容赦ない圧力をかけ続けた。1944年末から、米軍は太平洋と中国本土からB-29爆撃機を発進させ、日本の高射砲が届かない高度から、おそろしい空爆攻撃作戦を全土にわたって仕掛けた。しかし、戦争遂行においておそらくより重要だったことは、米海兵隊が帝国の食料供給地域から日本本土を隔離し、1945年始め頃から日本人を文字通り飢えさせたことだろう。ほぼ全ての監視員が日本は既に崩壊寸前であると一致していたにも関わらず、米軍は1945年8月6日、広島に最初の原爆を落とした。8月9日のソ連軍の満州侵攻に続き中国における軍事防御は壊滅した。ロシア軍が朝鮮に近づくにつれ、日本軍部の精強でさえも、ソ連による占領、戦争犯罪裁判、ドイツのような祖国分断の危機に直面することになった。8月9日には米国が長崎に2つ目の爆弾を落とし、さらにその新軍事技術を試した。8月15日に日本政府は公的にポツダム宣言の条件を受け入れ、戦争はやっと終結した。連合軍は、近代以前の侵略先である沖縄などを除き帝国を分解し、日本に改革を断行した。つまり1945年以降に育った世代は、戦前の制度を経験した世代とは全く違った経験をしたということである。戦争に勝てなかったことを率直に嘆く日本人も多かったが、悪夢がやっと去り、日常生活がまた営めるようになったことを喜ぶ人々のほうが多かった。

アーロン・ムーア

文献の記載方法 

アーロン・ムーア 「1925年〜1945年の近代日本における児童期、教育、青年」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]