祭事

子供も大人もいろいろな祭りを楽しんだ。疎開先の子供たちや、動員されて工場で働く十代の若い人たちにとって、祝祭日は戦時下の抑圧された暮しの中での息抜きであり、時には、家族に会いに帰る機会でもあった。

「元日」は特別な祭日で、インタビュー協力者らは、各家庭でどんなふうに新年を祝ったかを回想していた。子供たちは、餅の入ったお雑煮や鯉料理、天ぷらなど、お正月の特別な料理を楽しみにした。みかんやゆで卵や魚、せんべいなど戦前には普段食べられたものが、戦時中は祝日の御馳走となった。普段は米と麦を混ぜて食べていた家庭も、正月だけは特別に純白米を食べたりした。新しい着物やおもちゃなどを買ってもらったり、正月の飾りをつけたりした覚えのある人もいた。特に、カルタや凧揚げをしたり、羽子板で羽根をついて遊んだ記憶のある人が多かった。子供たちは、一年の始めに毎日の生活を記録するために、新品の日記帳や文房具、筆、万年筆などもらうこともあった。

夏の祭りの「お盆」も若い人たちにとって大切な祝日だった。先祖を奉る行事であり、子供たちは疎開、勤労動員、学校の宿題などから解放されたからだ。お盆の日が地域で異なるように、御馳走も郷土料理の影響を受けて、地域色豊かである。例えば、たこ焼きや米で作った甘い団子や、(魚と白米が手に入る場合は)鮨などだ。子供たちは、浴衣や着物など伝統的な夏の衣服をまとい、地域の人たちが集まって盆踊りを踊ったものだとインタビューで回想する人もあった。家族が集まるお盆の時期は、家を離れて暮す若い人たちにとって、一年でも特に辛い季節だったことは重要な点である。

桜を眺めて楽しむ「花見」に家族で出かけるのが待ち遠しかったと回想する人も多かった。特に青森の弘前城など、桜が有名な地域に住んでいた人たちにとっては特にそうだ。関西地方では、八坂神社など有名な桜の名所のある京都まで、公共交通機関を使って家族で花見に行ったりしたという。それは子供たちにとって、自分の生まれ故郷以外の世界を見る特別な機会だった。

地域の祭りも楽しい思い出で、神輿(みこし)を担いだり、笛や太鼓などを演奏したりしたそうだ。「ねぶた祭り」で知られる青森県では、子供たちが「ねぶた」という山車(だし)を作ったり、それを街中曵き回したりした。指揮を取ったのは、子供たちの中では高等小学校の児童らだ。十代になると、青年団の若者らが指揮を取った。インタビューでは、小遣いをもらって、屋台の食べ物やおもちゃを買ったり、ゲームをしたりした記憶がある人も多かった。女性は、祭りになると綺麗な着物を着せてもらった思い出や、綺麗な着物を着た年長の少女らを羨ましく思い、自分もそうしたかったという思い出について語った。しかし、太平洋戦争中には、祭りの着物を着ると顰蹙(ひんしゅく)を買った。

祭りの日程は地域によって多種多様だ。例えば沖縄では、中国の先祖の墓掃除の行事である清明節にあたるシーミー祭の集いについて記憶している人がいた。

小学校の運動会も、家族が競技を観戦しながら、弁当を食べたり、(時には酒を)飲んだりして一緒に一日を過す機会だった。疎開先の子供たちにとっては、いろいろな町や学校、学年の出身者が、男女を問わず大きな公の催しで交流する特別な日だった。戦時下の子供たちの日記には、競争心を掻き立てる忘れがたい思い出として、徒競走や剣道、相撲などがよく出てくる。

ピーター・ケイブ、アーロン・ムーア、ハリデー・ピエル

文献の記載方法 

ピーター・ケイブ、アーロン・ムーア、ハリデー・ピエル 「祭事」近代日本における子どもおよび青年の生活と教育 [URLおよびアクセス日を追加]